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「ゆっくり小学校3期」の感想を頂きました

ゆっくり小学校3期へご参加頂きました、阿藤智恵さんにご感想を頂きましたのでご紹介させていただきます。

ゆっくり小学校で学んだこと

 ゆっくり小学校で学ぶのは、ものすごーく簡単に言うと、「もっと速く、もっと大きく、もっと多く」という物差しで〈意味〉や〈価値〉が測られてしまう社会から降りること。これまでの人生で学び、身に着けてきたその価値観をunlearn(学びほどく)こと。
 だとすれば、すでに十代のころから、わたしは壁にぶつかり、曲がりくねりながらも、そっちに進んではいたと思います。そうでなければ〈えんげき〉なんかやってない。ようむ員さんにも、「あなたは来る必要なかったんじゃない?」と言われました。たしかに、そうかもしれない。それでもこの4か月の学びは、びっくりするほど大きかった。「急がなくていい」「カネにならなくてもいい」「弱くっていい」「なにかしようとしなくていい」そんなひとつひとつは、まあ、知ってた。かなり実践してる、ように見えると思う。それでも。
 だから、つまりね、わかってなんかなかったんですよ。「知る」ことと「わかる」ことは違う。「ゆっくり、小さく、シンプルに」という言葉で示されたゆっくり小の理念は、少しばかり本質的にものごとを考えられる人なら、誰でも自然に到達するはずのもの。表面的な、特定の誰かがほかのいのちを横取りし、宇宙の豊穣をむさぼりつくすために作り出した、人間も、そのほかのいのちをもいじめる役にしか立たない浅はかなルールでは、わたしたちが早晩行き詰まることは、もう、とっくの昔に明らかだった。そんなの当たり前。でも、そう知っていても、のがれることは、むつかしい。

「卒業制作」の木の食器。小ささを中央のりんごと比べて下さい。

 本当に「わかる」ということは、そのように「なる」ということ。そうなっていないなら、わかってなんかいない。「わかってるんだけど……」ってみんないうけど、そうなってないなら、わかってない。でも、いいんです。いいっていうことが、気づいたことなんです。
 わたしにとって、ゆっくり小学生になることは、ちっとも「わかって」なんかない自分、ちっとも自由じゃない自分に、気づくことでした。そして、そのことに気づけば気づくほど、身に沁みればしみるほど、なんか楽になったんです。今は、前よりずいぶん、自由です。いまだに実践できちゃいないし、なんにもわかっていないのに、「わかってなかった」「まだできない」って思う気もちが、楽しいんです。これがたぶん、この4か月にわたしが学んだことの、第一歩です。
 今までのわたしは、自分にできないことを見つけたら、反省したり、後悔したり、自分をなじったり、バカにしたり、自己嫌悪したり、してました。もう、鬼の首でも取ったように、得意になって。でもね、そんなこといくらやっても、できるようになんか、ならないんですよね。それは、どうしてか?
 わたし、できない自分が、好きだったみたいなんです。ダメな自分、身勝手で傲慢な自分、人を(自分も他人も)軽蔑したり、責めたりする自分、底意地の悪い自分、そういう全部が、好きでした。びっくりですけど、できるようになんかなりたくなかったんです。変わりたくないし、立派な人になりたくない。なんでならなくちゃいけないの? って、思っているんです。今までだってちゃんと生きてきたし、これからだって生きていける、自分のこれまでの全体、いえ、むしろダメなところが大好きで、執着しているわたしがいました。愚かなことです。でも、愛すべきことでもあった。ダメな自分を責めていじめることは、このままでいるための、たぶん、エクスキューズでした。「わかってるもん」「ちゃんとダメだって言ってるもん」だから、変わらなくていいんだ、こんなにがんばってるのに、できないだけなんだから。
 それならそれでいいよ、って、思えたんです。それでいい。そうしたいのだから。いつか時が来たら、わたしも大人になるでしょう。そして、いつか、その時は来る。
 ゆっくり小では多くの名言を教わりました。数々の、頼もしい人生の指針の中で、今のわたしがいちばんいい気分になれることばを、ここに。

時間が足りなくなるとでもいうの?
神様は時間をつくるとき、不足のないようにたっぷりとおつくりになったのよ。
時間は使い果たしてしまうものじゃなくて、いつもやってくるもの。
いつだって、明日があり、来週があり、来月があり、来年があり、来世さえある。
なのに、なぜ急ぐ必要があるの? 
――サティシュ・クマールさんのお母さんのことば

(ゆっくり小の「校長」こと、辻信一さんの著書のいくつかで紹介されています。たとえば『英国シューマッハー校サティシュ先生の最高の人生をつくる授業』講談社)