連載2 学びをほぐし、編み直す
本来、自由な時間や余暇を意味した「スクール」という言葉が、では、どのように教育の場としての学校を意味するようになったのでしょう。ぼくは素直に、学びと自由とが切っても切れない関係にあるから、と考える。自由でない学びは学びではない。それは自由でない遊びが遊びでないのと同じです。つまり、学びと遊びとは、自由を共通項とする親戚同士なのだ、と。
教育という言葉は英語のエヂュケーションの訳語です。この英語の語源はラテン語のエドゥカーレで、その元来の意味は「内側に秘められたものを引き出す」こと。
その点、現代社会の教育はどうでしょう。それはまるで、空っぽの容器にどれだけたくさん詰め込めるかを競っているかのようだ。そう言うのはぼくの友人であり、師でもあるサティシュ・クマールです。彼は、子どもたちを空っぽの容器と見るかわりに、内に豊かな可能性を秘めた存在と見ます。
例えば、吹けば飛ぶような一粒の種子の中に、巨大な樹木へと成長したり、何千という実をつけ、何万という種を生み出したりする可能性が秘められている。とはいえ、ただその種がテーブルの上に置いてあるだけではダメ。大気、雨、土、そして様々な生きものとの関わりを通して、それは殻をやぶって、芽を出し、育っていく。つまり、可能性が引き出されていく。教育とはそのようなことだと、サティシュは考えます。
実は、「ゆっくり小学校」という考えの種をぼくに蒔いてくれたのも、そのサティシュだったのです。
「学ぶ」という言葉で思い出すのは、ぼくの人生のもう一人の師である鶴見俊輔さんの話です。アメリカで勉強していた10代の頃、アルバイトをしていた図書館に、あのヘレン・ケラーがやってきた。用事を済ませた彼女はそこにいた鶴見さんに通訳を通じてでしょう、「学生ですか」と尋ね、こう言ったそうです。 「そう、じゃあ、勉学に励んでいるのね。私も学生の頃はよく学んだ。でも、学校を出てからは、一生懸命、アンラーン……」
この「アンラーン」が問題です。「学ぶ」〈learn〉の頭に否定を意味する〈un〉がついている。もともとは、「学び覚えたことを意識的に忘れようとする」こと。でもそこにもう一つ、「学び直す」という言葉が加わったらしい。
鶴見さんの役は「学びほぐす」でした。「学び」を一度ほぐして、また作り直す。億劫がらずに、何度も。糸をほどき、布を編み直すように。
「ゆっくり小学校」の「学」の意味も、ここにありそうです。
2014年 婦人之友 2月号掲載