ゆっくり小学校 ≫ 婦人之友誌連載

連載6 自由はスロー、愛もゆっくり

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現代人は口を開けば、「時間がない」という。不思議なことです。昔も今も一日は24時間。では現代社会に「時間がない」のはなぜ?

子どもたちは、年がら年中急かされる。でも、大人だってかわいそう。いつもグズな自分を責めている。

昨年の春、サティシュ・クマールをイギリスに訪ねた時のこと。駅にぼくを出迎えた彼は「きみが気に入りそうな歌がある」と言って、「ディレー、ディレー(ゆっくり、ゆっくり)」というインドの古詩を詠ってくれました。「ゆっくり織り、ゆっくり縫い、ゆっくり学ぶ。心よ、ゆっくりと行きなさい。そうすればすべてがうまくいく……」

「チョンチョニー」、「ポレポレ」、「チャプテーン、チャプテン」(どこの言葉かな?)世界中どこに行っても、ものごとを丁寧にゆっくり進めることの大切さを教えない文化はありません。スペイン語の諺にも、「ゆっくり歩けば、遠くまで行ける」とある。

「ゆっくりと」と「急かされて」の間には本質的な違いがあるのです。

前に、スクールの語源「スコーレ」が「自由時間」を意味する言葉だったと言いましたね。「自由時間」とは、誰にも急かされず、自分のペースで、やりたいことをする時間です。その多くを奪われて、残るは「不自由時間」ばかり、というのが現代人の状況です。

一方、牢獄という檻(おり)の中に閉じ込められている囚人の苦しみは、ぼくたちの悩みと反対に、時間が多すぎること。でも実は、ぼくたちもまた一種の檻の中にいるのではないか。「不自由時間」という牢獄に。

無実の罪で13年間獄中にあった韓国の思想家ファン・デグォンさんはこう言って苦笑します。「忙しい時にはふと独房に帰りたくなる。時間だけはたっぷりあるからね」。彼は今、山の麓に、SSSのような学校と、それを中心とする共同体を創っているところです。

それにしても、現代人が、鉄格子も鎖もない不自由時間の檻から出られないのはなぜか。それは、その檻の中にしか、まともな人間の生きるべき場所はないと、社会に刷り込まれてきたからにちがいありません。檻の外に広がるのは無意味な時間ばかりが無駄に流れる、退屈で寂しい場所。そんな所にいるのは、自由の意味をはき違えたナマケモノや落伍者ばかりだ、と。

いつも急かされてきた者は、急かされないと逆に不安で、「自分は必要とされていないのでは?」と悩む。

こう自問してみてください。果して自由の効率化は可能か。私は効率的に愛されたいだろうか、と。

「ゆっくり小学校」は、自由と時間との根本的な繋がりを学び直す場所です。

2014年 婦人之友 6月号掲載