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冨田貴史さんより、
『怖れるなかれ』へのメッセージ

(坂田昌子さんの)話を聞いていて、インドにおける非暴力不服従運動の指導者であったビノーバ・バーベの言葉を思い出した。
「太陽が昇らなくなれば、世界はそれまでです。雨の恵みがなくなれば、やはり世界の終わり。私たちが真に必要としているのは神の恵みであって、役所の恵みではありません。もし政府が二年間機能を停止したらどうなるかって? その間に、政府が不可欠の存在であるという幻想が、打ち砕かれるでしょう。最も望ましい政府とは「本当に存在しているのか」と疑われるような政府なのです。中央にすべての権限を渡してしまうのではなく、人々が自分たち自身でコミュニティの面倒を見られるようでなければいけません」
『怖れるなかれ 愛と共感の大地へ』ビノーバ・バーベ、サティシュ・クマール

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運動も学びも、個人が孤立した中で進めても、どこかで行き詰まる。
マハトマ・ガンディーも、ビノーバ・バーベも、サティシュ・クマールも、ヴァンダナ・シヴァも、僕が尊敬する社会変革のリーダー達は皆、意見や価値観の違いを越えて地域の人たちと関わり続け、コミュニティの再生を推し進めてきた。彼らは、政府の力に頼るのではなく自分たちの手で暮らしを作っていく事、その力を付けていく事を活動の中心としてきた。

孤立と自立は違う。孤立の道を選べば自立の道からは遠ざかっていく。地域の中でひとりひとりが孤立していたら、地域の自治は政府が行う事になるだろう。

意見が違えども、価値観が違えども、その地域の土や水や種や衣食住のあり方について、自分たちで話し合って、自分たちで管理しない限り、誰かに委託するしかなくなる。そうやって、僕たちは政府や企業の力を育ててきた。

僕は、種とアナーキーという言葉を結びつけて使うセンスが好きだ。そして、坂田さんの語るアナーキーという言葉の奥に「自治」の匂いを感じる。地域の中に混ざり、地域のあり方に関わっていく事。地域の中には色々な価値観とライフスタイルが混在しているから、そのプロセスは簡単ではない道だ。変わり者扱いされたり、拒絶されたりすることもあるだろう。
しかし振り返ると、そのような状況を作った原因は、私たちが、とりわけ政府や企業の勧めるライフスタイルを鵜呑みにしている多くの人たちが、食べ物や衣服や住居を作ったり、子どもを育てたり親の世話をするという生活の土台を作る行為を、企業や政府に任せきりにしてしまってきたところにある。

簡単でないのは、私たちが持っていたものを手放し、やってきたことを忘れてしまったからではないだろうか。私たちが今得ようとしている力は元々持っていた力だし、私たちが歩む道はもともと歩んでいた道であるように思える。種が土に降りて力を得るように、私たち
は地域に根を降ろしてこそ、力を得ることができる。その道は懐かしい道であり、その感覚は「思い出す」に等しいものではないかと思える。

最後に、再びビノーバ・バーベの言葉を紹介する。
「すべてのコミュニティにおいて、すべての人が人生を自分の手に取り戻さない限り、自由はありません。それぞれのコミュニティが生活全般の運営を自分たちで行い、住民同士の仲たがいを解決し、子どもをどう教育するかを決め、平和と安全を確保し、物資の流通のための市場を運営する。そうなれば、人々の自尊心が回復します。どのコミュニティでも、ごく普通の人々が公共の仕事を経験しながら、さらに自信を深めるでしょう」

冨田貴史 (冨貴電報 vol.0082018.1.20 大寒号より)