スロー・デス・カフェとは
死に向き合い、死を想う「スロー・デス・カフェ」
「スロー・デス・カフェ」と聞いて、ピンと来る人は誰もいないでしょう。かなり怪しい名前ですもんね。
「スロー・デス・カフェ」とは、その名の通り、ゆっくりと死について考え、思いを馳せる“メメント・モリ”な円居の場のことを言います。
メメント・モリというラテン語は「死を想え」と訳されますが、「死について想うことは生きることを想うこと」といったニュアンスを含んでいて、わたしたちに「死生観」を持つ大切さを教えてくれる言葉です。
「死生観」とは死から生を省察し、生きる意味や生きる姿勢を養うってことですが、「スロー・デス・カフェ」とは、まさに「死から生の意味を考える」きっかけをつくるムーブメントなのです。
ところで、「死とはなにか?」、「いのちとはなにか?」と聞かれても、それを説明するのは容易ではありませんよね。そもそもみんな「死」についてなんか考えたくもないでしょう。でも確実に言えるのは、わたしたち人間は必ず“死に逝く存在である”ということなのです。
ヒトが「死」を発見したのはネアンデルタール人の頃だとか、クロマニョン人だとか諸説あるようですが、いずれにしても、はじめて「死」を発見したヒトはそれをとても驚いたに違いありません。「あー、自分はいつか死んでしまうのか。これはうかうかと生きてはいられない!」、きっとそう思ったことでしょう。
死の発見は宗教観をもたらしたと言われますが、死の発見はなにより生の発見でもあるのです。永遠に生きる生、どこまでも続く死のない生は生ではありません。死は生きるための最大の障害でありながら、同時に生きるための必要な条件なのです。
それでも人間はこれまでの歴史のなかで不老不死を求め、死に抗い続けてきました。今日の科学物質主義文明が生みだした医療技術の目ざましい進歩は、かつて不治とされていた病の治療や延命を可能にしました。しかしその一方で、人々が死を受け入れられない社会、死を見ない社会がつくられてしまったのです。いくら科学が進んだとしても、わたしたちは死なないわけにはいかないのです。なぜなら、わたしたちは生きる存在なのですから。
詩人の谷川俊太郎さんは「詩と死がない人生は“しがない”」と言いましたが、「死なない」「死にたくない」「死を見たくない」という思考は、しがないだけではなく、社会にさまざまな不具合を生んでいる気がしてなりません。その象徴とも言えるのが、高速増殖炉のような永遠のエネルギーをつくりだすシステムではないでしょうか。永遠のエネルギーは、わたしたちに、地球の未来に、幸福を与えてくれると思いますか?
「スロー・デス・カフェ」では、夜な夜な集う人々と「ああでもなく、こうでもなく」と死について考え、対話しながら、わたしたちは死に逝く存在であるという極々当たり前のことを思い出し、生きているいまを噛みしめる時間をつくっていきたいと思っています。
死とコーヒーはほろ苦い。
死は辛くて、寂しくて、悲しいものですが、死に向き合い、死を想い、生きる意味を探ってみませんか。