坐・ベンチャーズとは
「生命平和運動」活動家であるファン・デグォンさんの話しを聞くために、辻さんとソウルを訪ねたときのことだった。話しのなかで、ファンさんが刑務所のなかで自作のベンチをつくっていたと盛り上がる場面があった。来客のあるはずのない独房にも人を招きいれるベンチがあってもいいと、刑務官に壊されても壊されても、つくり続けたそうだ。
翌日の朝、わたしの顔を見るやいなや、辻さんは興奮気味にこう言った。「決めた! ベンチャーズやろう!」と。帰国後、中村隆市さんとの会話の後から、その名は“坐・ベンチャーズ”へと進化した。面白いことは大抵ダジャレからはじまる。
“坐・ベンチャーズ”とはなにか? 野暮ではあるが、いささか説明しておこう。
坐・ベンチャーズとは、まず「ベンチ」に愛着を持ち、それについてマジメに考える者たちのことである。ベンチに改めて注目してみると、千差万別、さまざまなかたちがあることに気づく。見ているだけで、実に楽しい。しかし、なかにはベンチとして認め難いものもある。例えばそれは、ひとりひとりが腰掛けられるように個分けされたベンチのことだ。
都内のとある公園の一角には、ベンチを中心とした独立国家のような場所があり、アナーキストたちの格好の寝床になっている。本来ベンチは長くて、そこに寝そべることができるものだ。個が確保され、眠ることのできないベンチは、ベンチではなくイスでしかない。それでも、ベンチをあえて個分けするのは、最初に居すわった者が我が物のように独占するのを禁じ、人々に等しくすわる権利を与えるというお上のやさしい配慮によるものなのか? それは一見、気がきいているように感じられるが、ベンチは誰のものでもなく、誰にでも使えるというのがミソである。誰のものでもないから、人々は分かち合って使わなければならない。ベンチを通して分かち合うことを学ばなければならないのだ。席が独立したベンチは、親切でもなんでもなく、人々から分かち合う権利を奪い取ったものだ。もっと言えば、ホームレスに眠らせたり居すわらせたりさせまいと、親切心を装った意地悪な叡智が生みだしたものに違いない。
わたしはなぜか月の土地を所有している(らしい)。うちの社員が誕生日に土地の権利書のようなものをプレゼントしてくれた。これはアメリカの企業が売っているものだが、アポロ11号がはじめて月に降り立ったからといって、いくらなんでも土地を売買する権利があるのだろうか? しかし、そもそも地球だって誰のものでもないはずである。なのに、地球上のすべての土地は、霊長類ヒト科によって所有権が主張され、すべてに名札をつけられてしまった。所有権がないのは日光と空気ぐらいではなかろうか。それもそのうち巨大なグローバル企業に掌握されてしまうかもしれないが…。
ベンチを考える上で、「共」という概念について、まずは知っておくべきだ。地球上のあらゆる土地は、「公(国や地方自治体)」か「私(企業や個人)」に基本的には所有されている。「共」とは、「公」にも「私」にも属さない共有財産であり共有地、いわゆるコモンズ(入会)のことを言う。近代の所有意識や奪い合いによって、いまや世界からコモンズは失われつつあるが、かつては世界中にコモンズが存在し、地域共同体のあり方の根幹をなしていた。
近年、コミュニティを取り戻す運動とともにコモンズの考え方が少しずつ見直されてきている。シェアオフィスやシェアハウスなんていうのも、その流れのひとつだろう。“坐・ベンチャーズ”は、小さなコモンズを取り戻す小さな運動でもある。ベンチとは、本来、何者かが所有する場所に置かれた、誰にでも使えるものだ。神社の参道にある縁台は神社のものに違いないのだが、誰でも使える共有物として当たり前のように機能している。逆に言えば、ベンチさえ置けば、誰かの土地が誰のものでもない場所になるのではないだろうか!
なんと! ベンチは「公」や「私」を「共」に変えることができる素晴らしいアイテムなのだ! ベンチさえ置けば、所有者に気兼ねなく自由に寝転ぶことさえできるのだから。
ところで、「坐」と「座」の違いについても触れておこう。谷田部英正・著『日本人の坐り方』には、それらの違いについて次のように書いてある。
《「坐」という文字を使った場合、人のすわった「形」や「動作」をあらわし、そこにマダレが被さって「座」となると、すわる「場所」を意味するようになる。解釈はそこからさらに広がって、……人々の集う「空間」や「共同体」、さらにはその場に流れている「空気の質感」までも含むようになっていく。》と。
“ベンチャーズ”の意味合いからすれば「座」と言えなくもないが、「すわる」という小さな行為に注視したいということ、また、マダレは屋根を表していて、ベンチは屋外にあるということもあって、マダレのない「坐」をつけることにした。
「坐」という文字は、土の上に人が2人という字だ。坐は2人いてはじめて成立するらしい。おお、よく見ると、土はベンチのかたちに見えてくるではないか!
記念すべき、“坐・ベンチャーズ”船出の一枚は、ファンさんと辻さんの2ショット写真である。それはまさに「坐」なのである。ただ2人でベンチにすわっているだけなのに、大の大人がなんとも愉しそうで満足げな顔をしている。この満足感は、ともにいる愉しさから自然に沸きあがってくるものだろう。
ともにいる愉しさ―それがしあわせってものだ。“坐・ベンチャーズ”とは、分かち合いの象徴であるベンチを愉しみ、分かち合うしあわせを伝えていくムーブメントにほかならない。ベンチに2人で坐るしあわせを―それが“坐・ベンチャーズ”の理念そのものである。
世界のベンチに坐り、寝そべってみようじゃないか。
さぁ、みんなで、“坐・ベンチャーズ”!