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死の体験は3つに分けられる

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死とは瞬間ではなく過程、そして多様なもの、と紹介しましたが、死には人称性があり、3種類の死をわたしたちは人生のなかで経験すると言われています。

1人称の死は自分自身の死、2人称の死は身近な関係性の深い人の死、3人称の死は社会のなかで起きている他者の死です。

日本は超高齢化社会を迎え、「いかに終末期を生きるか」、「いかに死ぬべきか」といった著書が町に溢れかえり、1人称の死=自らの死への関心ばかりが高まって、それがかえって生への執着を促しているように思えます。その一方で、わたしを含めた死にかかわる職業人のすべてが“2人称の死”への援助のためにそれぞれの職に従事しているといっても過言ではありません。

フランスの哲学者であるV.ジャンケレヴィッチは「哲学的な経験として残るのは第2人称の死、つまり身近なひとの死です。…死の哲学は身近にいるひとの死を契機としてなされるのです」と言っていますが、さきほどの辻さんの手記のように、身近な人の死は身を切られるほどの大きな悲しみでありながら、死を本当に学ぶには大切な存在を失う体験からしか学べないものです。

死生学者のE.S.シュナイドマンも「自分の死は自分にとっての経験とはならないが、他人にとっての経験となる」と言っていて、それを逆説的に言えば、2人称の死こそ、そこに立ち会う遺された者たち自身の生と死への重要な学びの経験になる、ということでしょう。

それでもやはり、愛する人の死は、遺された者に大きな喪失感と悲嘆をもたらす辛い経験です。死を受け入れるのは、たやすいことではありませんよね。実は、わたしたち「スロー・デス・ブラザーズ」の3人をはじめ、「スロー・デス・家族」のメンバーは、愛する近親者を亡くした経験を持つ者であり、いまもまだ喪失のなかにいます。

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「スロー・デス・カフェ」の目的のひとつに、喪失感の共有や感情の表出があげられます。2人称の死を経験した人も未経験の人も、それぞれの体験や想いを吐露し、対話しながら、抱え込んでいる悲しみやさまざまな感情を表出する、堂々と泣いてすっきりする…、死を受容する時間を過ごし、その経験を人生に活かす力を養っていきたいものです。

2人称の死は辛く悲しく寂しいけれども、嘆き悲しむだけの経験ではありません。大切な人の死をゆっくりと受け入れながら、そこで感じた思いを人生に活かし学ぶチャンスに変えていきましょう。