燃え続けるポトラッチの火
北アメリカ北西部沿岸の先住民族固有の祭宴として知られるポトラッチ。
西洋人による弾圧にもかかわらずこの儀式を守り続けたクワクワカワク民族の歴史的な祭りが昨年、華麗に繰り広げられた。
カナダ、ブリティッシュ・コロンビア州、アラート・ベイ村に祭りの日がきた。祭りを主催するナムギス部族(ここでいう「部族」は民族の構成単位をさす)の人々は、海岸を見下ろす高見に勢ぞろいしている。黒や紺の紋様と無数の貝のボタンを縫い付けた赤地の外套(ブランケット)に、レッド・シダー(ベイスギ)の樹皮の冠。赤と黒のコントラストが初夏の陽光の中に浮き立つ。
くり舟(カヌー)と漁船が岸に向かって集まってくる。岸の方では大首長の合図で歓迎の歌が始まる。舟の方からも到着を告げる歌声が応える。カヌーでやってきたのはナムギスと同じクワクワラ語を話す近隣のクワクワカワク部族(かつて人類学者にはクワキユートル部族として知られた)、大きな漁船にはハイダ、ヘルツック、ニスガなど、カナダ西岸の更に北に住む他民族が乗り込んでいる。
こうして祭りは始まった。海岸を埋め尽くした人々は、丘の上に建つ新しい“ビッグハウス”に向かって坂道を行進する。
文化復興のシンボルビッグハウス
放火による旧アラート・ベイ“ビッグハウス”の焼失というニュースが先住民社会に大きな衝撃を与えたのは1997年夏のことだ。
ビッグハウスとは、かつて数家族、数十人が居住した伝統的な木造の大型家屋で、同時に宗教的な儀式やポトラッチ(大規模な贈与を伴う祭宴)を行う祭場でもあった。トーテムポールなどの豊かな芸術的伝統で知られる北米大陸西岸地方の先住民文化だが、中でもクワクワカワクはその壮麗なポトラッチによって西洋人を驚かせた。先住民族を同化させようとするキリスト教会や政府は、「文化の要」でありこのポトラッチを、最大の障害とみて19世紀前半からくり返し弾圧した。
カナダが「ポトラッチ禁止法」を廃止するのは1950年代に入ってからのことだ。その頃にはすでに北米西海岸のビッグハウスやトーテムポールはほとんど姿を消し、また政府による長年の弾圧と同化政策によって、多くの先住民族が文化的なアイデンティティーを失いかけていた。しかし、クワクワカワクは「ポトラッチ禁止法」時代を生きた年輩の彫刻家たちが建設の先頭に立った。それ以来ビッグハウスは、新しい世代への文化継承の場となる。この流れはその後、同じアラート・ベイにおける53メートルのトーテムポール建立(73年)や、ウミスタ文化資料館の設立(80年)へと続き、その中から多くの芸術家が生み出された。今やクワクワカワクはカナダ先住民の芸術文化の復興を代表する存在といっていい。
“再び、たちあがる”
中央のたき火は2日間勢いよく燃え続けた。正面にそびえたつ絢爛たる壁画と彫刻。その下におかれた丸太をたたきながら唸るように歌う男たちの群れ。ポトラッチの主役ともいうべきハマッツァ(野人)の踊り。その合間に繰り広げられる各部族、民族特有の舞い。1500人収容可能という建物に2000人を超える人々が集まっていた。
祭りは“イ・トゥスト(再びたちあがる)”と命名されていた。焼失から2年弱。再建までの迅速にしてねばり強い動きには、今日のクワクワカワク民族の社会的、文化的力量が示されている。
環境破壊と乱獲とずさんな制作のためにカナダ西岸の漁業は衰退の一途をたどっている。中でも深刻な打撃を受けているのが、この地に過去数千年漁撈民(ぎょろうみん)として生きてきた先住民だ。クワクワカワクの人々は、長い間、サケを糧として暮らしてきた。かつて漁村として栄えたアラート・ベイ、そしてかつての誇り高い“サケの人々”クワクワカワクは多くの失業者を抱えて苦しんでいる。そんな彼らにとって文化とは、若い世代を故郷に、民族に、つなぎとめるための糧であり、政治的、経済的自立への道を示す道しるべでもある。
イ・トゥストの祭り。それは、長老彫刻家たちの指示をあおぎながら再建への原動力として活躍する若い世代にとって、文化の担い手へと自らを鍛え上げる通過儀礼だったといえる。思えば、現代の先住民族にとって祭りのひとつひとつは、一度失いかけたものが「再び、たちあがる」、再生の儀礼にほかならない。
(2000年9月1日発行 週刊金曜日より転載しました)