サティシュ・クマール ≫ Resurgence

2014年 1・2月号 No.282

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サティシュ・クマール ”WELCOME”
新しい年、新しい哲学

私たちはみな関係し合っています。繋がっています。互いに互いをつくり合っている存在です。存在するもののすべては同じ7つの要素――土、空気、火、水、空間、時間、そして意識、からできています。そしてこれらの要素のどれもが、他の要素のおかげで存在している。どんな要素もそれ自体で存在することはできないのです。ある根源的な生命の統合があって、それが無数の形として顕れるのです。統合(ユニティ)と多様性(ダイヴァーシティ)とは、共に終わりなきダンスを舞っています。量子力学も私たちに教えているように、究極において、すべてはたった一つのエネルギーに過ぎません。それを、粒子とみるか、波とみるか、に関わらず。

多様性とは、分割を意味するものではありません。分離、断片化、二元論などは外見的な印象によって私たちの内につくり出された観念に過ぎません。暗さは明るさの反対であるように見える。左と右、心と物質とは対立しているように見える。しかし、ホリスティックな視点から言えば、闇と光、左と右、そしてその他すべての二項対立は互いに依存し合い、補完しあって全体をなしているのです。中国ではこれを、陰と陽の調和と名付けました。陽の中に陰があり、陰のなかに陽があるというのです。

もし私たちが世界をひとつのまるごととして見ることができるなら、私たちが抱えているすべての政治的、宗教的、民族的、そして環境学的な分裂はあっという間に癒されることでしょう。科学、精神性、そして芸術の間にある溝は埋められ、頭(ヘッド)・心(ハート)・手(ハンズ)という3つのHの対立は解消するでしょう。

こうした調和の思想を、プラトンは真・善・美の三位一体と表現しました。彼のこの三層からなる哲学もまた、ホリスティックな世界観のひとつと言えます。科学を通して、私たちは真実を、霊性(スピリチュアリティ)を通して善を、芸術を通して美を求めるのです。だとすれば、どうして科学とスピリチュアリティとアートを、別々の仕切りの中に入れてしまうことができるでしょう。

同じように、私たちは頭脳によって考え、心理を知ることができる。それを科学と呼びます。心によって自らの内に善を育て、よき生を生きることができる。それがスピリチュアルティというものです。そして手によって、わたしたちは美を想像し、表現し、伝え合う。それが芸術です。

このように、科学とスピリチュアリティと芸術はひと連なりです。そこには、断裂や分割はありません。私たちの身体はこうした調和の見本です。私たちは7つの要素のすべてによる完璧なハーモニーとして存在しています。私たちは考えることができる。感じることができる。作ることができる。私たちひとつひとつの存在が丸ごとです。この全体性、完全性、そして関係性を理解することが持続可能性へ向けての第一歩なのです。

心とモノとの間の分割はフランスの哲学者、ルネ・デカルトとともに始まりました。彼は、“我思う、故に我あり”という有名な言葉によって、思考の優位を宣言しました。このデカルト風二元論はその後、西洋哲学と科学の土台となるのです。次第に学校、大学などすべての教育機関では、知識を相互に孤立した科目へと分割していきます。その結果、経済学はエコロジーと無関係なものとして教えられることになります。同様に、政治は詩のないものに、科学はスピリチュアリティのないものとなった。どの科目も専門家からなる“学科”という仕切りの中に入れられてしまったのです。

こうした伝統は今も揺るぎなく続いています。「部分」の学問が「全体」とは無関係に突き進んでいきます。学生たちは文章(テキスト)を文脈(コンテキスト)から切り離して学ぶわけです。同様に、人類学のない心理学、ミステリーのない歴史、美術のない天文学・・・。このようなバラバラの「部分教育」が、政治、ビジネス、医療、農業など、暮らしのあらゆる分野へと浸透していきます。こうして、私たちは世界を、国家、宗教、政治経済システムへと分割してしまいました。そして、何よりも深刻なのは、人間とその他の自然との間に刻まれた溝です。これで私たちが、環境、経済、地政学、スピリチュアリティにおける危機に見舞われていなかったら、かえって不思議ですよね。

さあ、ムッシュー・デカルトに別れを告げる時です。そして、世界を相互に繋がり依存し合う全体(ホール)として見るのです。利己の思想を超えて、相互性、互恵性、相互依存の思想を抱きしめましょう。

この調和の哲学をもって、新しい年が始まります。